職業野球を追いかけて

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高橋礼から杉浦忠、ホークス・アンダースロー史メモ書き

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11月6日に行われたプレミア12・プエルトリコ戦。この試合で先発した投手は高橋礼だった。高橋は6回無失点の好投を見せて勝利投手となったが、シーズン中も12勝と活躍を見せている。

 

その高橋は近年のプロ野球界では珍しいアンダースローだが、思い返すとホークスはアンダースロー投手が多かった。

 

まずは1938年から1940年まで在籍した劉瀬章。中国出身という珍しいプロ野球選手で、1939年には28試合、8勝12敗、防御率2.40と活躍を見せたが、1940年限りで退団。

 

同時期に在籍した政野岩夫もアンダースローだった。1938年から1944年まで南海に籍を置いた投手で、1939年は46登板、18勝19敗。1940年はチーム最多となる48試合に登板して12勝24敗と、エース級と呼んでも過言ではない活躍を見せたが、中本政夫と名前を変えた1944年シーズン途中に召集され、戦死した。

 

通算27登板、3勝8敗と活躍は見せられなかったが、同時期(1939年〜1940年)に平野正太郎というアンダースロー投手も南海に在籍していた。

 

戦後プロ野球が再開されたあと、1949年には武末悉昌を獲得。1年目から21勝17敗と劉、政野、平野以上の活躍を見せて鮮烈なデビューを飾ったが、オフに西鉄へと移籍した。

 

5年後、1954年には後にアンダースローへ転向し、名球会入りを果たす皆川睦雄が入団。当初は活躍を見せられなかったが、3年目となる1956年に60登板、11勝10敗と活躍すると、翌1957年には56登板、18勝10敗の成績を残した。

 

一気にエース格となった皆川だが、オフに立教大学から杉浦忠が入団。サイドスローともアンダースローとも呼ばれる投げ方をするルーキーは、いきなり開幕投手に抜擢されると53登板、27勝12敗の成績を残し、エースとなった。

 

さらに2年目となる1959年は38勝4敗と驚異的な成績を残し、チームの優勝に貢献。MVPに輝き、巨人との日本シリーズでは4連投、4連勝と大車輪の活躍を見せて日本シリーズMVPにも輝いた。

 

時代は飛び、1977年。松原明夫とのトレードで広島から金城基泰が南海に入団。1974年に20勝15敗と活躍を見せた右腕の投法は、ダイナミックなアンダースローだった。映像を見ると、体を思い切り捩り、右手を高く上げるなど勢いがあるフォームであったことがわかる。先発だった金城だが、南海入団後はリリーフとしての活躍が目立ち、1979年には最優秀救援投手に輝いている。

 

同時期には、1975年に近鉄からトレードで入団した佐々木宏一郎も在籍していた。現役20年で通算667試合に登板し、1970年には完全試合を達成した名投手だが、南海ではリリーフとしての登板が目立った。

 

金城が1984年オフに巨人へと移籍すると、入れ替わりで中日から青山久人が入団。細身の体から“青エンピツ”と呼ばれたアンダースロー投手だが、1985年から1987年までの3年間で40登板、0勝2敗と活躍は見せられなかった。

 

3年後、1990年に行われたドラフトで5位入団した足利豊もアンダースローだった。思い切り振りかぶる綺麗なアンダースロー投手で1992年に5勝、1993年に6勝と活躍を見せ、“西武キラー”とも呼ばれたが、その後は怪我に苦しみ、通算13勝に終わった。

 

その後、球界全体でアンダースロー投手が減ったが、2012年ドラフトで山中浩史がホークスへ入団。2年目となる2014年途中にヤクルトへと移籍したため、活躍は見せられなかったが、ヤクルトでは2015年に6勝を挙げて優勝に貢献した。

 

そして2017年オフ、高橋礼が入団。1年目こそ12試合の登板に留まったが、2年目は12勝を挙げる活躍を見せ、プレミア12でも活躍を見せた。

 

さらに2019年ドラフトでは津森宥紀が東北福祉大学から入団。サイドスローではあるが、獲得した背景にアンダースロー・高橋が活躍した影響もあったかもしれない。