野村克也流・野球観戦術 『野村ノート』で読み解く打者分析
先日亡くなられた野村克也さんの著書『野村ノート』を読んだという記事を書いた。
本のなかでは他にも、タイプ別打者分析についての話もしている。今回は簡単ではあるが、野村流打者分析について、著書を引用しながら語りたい。
続きを読む野村克也vsイチロー、1995年日本シリーズの配球を観る
先日亡くなられた野村克也さんが書いた『野村ノート』をひさびさに読み返した。
興味深い事柄はいくつも書かれていたが、今回注目したい点は、1995年に行われた日本シリーズ、ヤクルト対オリックスでのイチロー攻略法についてだ。
野村さんはイチロー攻略について、こう記している。
事前のスコアラーの説明では「イチローにはまったく弱点が見当たりません」とのことだったから、イチローの内角攻めへの意識を高めるべく、私はテレビや新聞でインタビューを受けるたびに、「イチローは内角に弱点がある」といい続けた。
日本シリーズでのイチローはシーズン中のイチローとは明らかに別人で、完全に壁を崩していた。だから外角中心に攻略し、まずまずの成功を収めた。結果は19打数5安打(打率2割6分3厘)、1本塁打、打点2。
また、イチローという打者に関しては
日本人の多くの打者は見逃し三振をしたくないために、追い込まれるまでは変化球にヤマを張っていても、ツーストライクを取られるとA型(直球に重点を置きながら、変化球にも対応しようとするタイプ)に変わる。
なかにはイチローのように「変化球をマークしながら直球にもついていく」という天才的な打者もいるが、ほとんどの打者は、それでは変化球という遅い球をイメージするから直球が来たときに手が出なくなる。逆に速い球をマークしていれば、変化球が来てもファウルで逃げることができる。
と、バッティングの才能を高く評価し、さらになぜイチローが天才なのかという理由まで説明している。
これらを踏まえて、1995年、野村克也並びにスワローズバッテリーがイチローにどのような配球を見せたかを、筆者が見られた映像資料限りではあるが、振り返りたい。
なお、どこに投げられたかに関しては、以下の画像の番号を使い、示すことにする。
※センター方向から見た図。太枠内がストライクゾーン
続きを読む2016年引退・戦力外・自由契約選手一覧
高橋礼から杉浦忠、ホークス・アンダースロー史メモ書き
11月6日に行われたプレミア12・プエルトリコ戦。この試合で先発した投手は高橋礼だった。高橋は6回無失点の好投を見せて勝利投手となったが、シーズン中も12勝と活躍を見せている。
その高橋は近年のプロ野球界では珍しいアンダースローだが、思い返すとホークスはアンダースロー投手が多かった。
まずは1938年から1940年まで在籍した劉瀬章。中国出身という珍しいプロ野球選手で、1939年には28試合、8勝12敗、防御率2.40と活躍を見せたが、1940年限りで退団。
同時期に在籍した政野岩夫もアンダースローだった。1938年から1944年まで南海に籍を置いた投手で、1939年は46登板、18勝19敗。1940年はチーム最多となる48試合に登板して12勝24敗と、エース級と呼んでも過言ではない活躍を見せたが、中本政夫と名前を変えた1944年シーズン途中に召集され、戦死した。
通算27登板、3勝8敗と活躍は見せられなかったが、同時期(1939年〜1940年)に平野正太郎というアンダースロー投手も南海に在籍していた。
戦後プロ野球が再開されたあと、1949年には武末悉昌を獲得。1年目から21勝17敗と劉、政野、平野以上の活躍を見せて鮮烈なデビューを飾ったが、オフに西鉄へと移籍した。
5年後、1954年には後にアンダースローへ転向し、名球会入りを果たす皆川睦雄が入団。当初は活躍を見せられなかったが、3年目となる1956年に60登板、11勝10敗と活躍すると、翌1957年には56登板、18勝10敗の成績を残した。
一気にエース格となった皆川だが、オフに立教大学から杉浦忠が入団。サイドスローともアンダースローとも呼ばれる投げ方をするルーキーは、いきなり開幕投手に抜擢されると53登板、27勝12敗の成績を残し、エースとなった。
さらに2年目となる1959年は38勝4敗と驚異的な成績を残し、チームの優勝に貢献。MVPに輝き、巨人との日本シリーズでは4連投、4連勝と大車輪の活躍を見せて日本シリーズMVPにも輝いた。
時代は飛び、1977年。松原明夫とのトレードで広島から金城基泰が南海に入団。1974年に20勝15敗と活躍を見せた右腕の投法は、ダイナミックなアンダースローだった。映像を見ると、体を思い切り捩り、右手を高く上げるなど勢いがあるフォームであったことがわかる。先発だった金城だが、南海入団後はリリーフとしての活躍が目立ち、1979年には最優秀救援投手に輝いている。
同時期には、1975年に近鉄からトレードで入団した佐々木宏一郎も在籍していた。現役20年で通算667試合に登板し、1970年には完全試合を達成した名投手だが、南海ではリリーフとしての登板が目立った。
金城が1984年オフに巨人へと移籍すると、入れ替わりで中日から青山久人が入団。細身の体から“青エンピツ”と呼ばれたアンダースロー投手だが、1985年から1987年までの3年間で40登板、0勝2敗と活躍は見せられなかった。
3年後、1990年に行われたドラフトで5位入団した足利豊もアンダースローだった。思い切り振りかぶる綺麗なアンダースロー投手で1992年に5勝、1993年に6勝と活躍を見せ、“西武キラー”とも呼ばれたが、その後は怪我に苦しみ、通算13勝に終わった。
その後、球界全体でアンダースロー投手が減ったが、2012年ドラフトで山中浩史がホークスへ入団。2年目となる2014年途中にヤクルトへと移籍したため、活躍は見せられなかったが、ヤクルトでは2015年に6勝を挙げて優勝に貢献した。
そして2017年オフ、高橋礼が入団。1年目こそ12試合の登板に留まったが、2年目は12勝を挙げる活躍を見せ、プレミア12でも活躍を見せた。
さらに2019年ドラフトでは津森宥紀が東北福祉大学から入団。サイドスローではあるが、獲得した背景にアンダースロー・高橋が活躍した影響もあったかもしれない。
ベテラン巧打者・戸倉勝城の功績と、1950年代阪急の打者たち
戸倉 勝城 とくら・かつき
1914年11月3日生まれ 右投げ右打ち
身長170cm 体重69kg
豊浦中-法政大-大連満州倶楽部-大洋漁業-毎日オリオンズ(1950)-阪急ブレーブス(1951〜1957)
古い野球雑誌を読んでいると、戸倉勝城の評価が高いことに気がつく。1950年から1957年にかけて毎日、阪急で活躍した外野手だが、山内一弘は球団ベストナインにライトとして戸倉を選出している。打低の時代にシーズン3割を3度記録した打力の高さが評価されたのだろうか。
戸倉は坪内道典らと同じ1914年生まれ。35歳という高齢で、1950年、大洋漁業から河内卓司と共に毎日オリオンズに入団した。同年大洋がプロ化したことを考えると、これは“引き抜き”であったかもしれない。入団初年度から主に4番として起用され、打率.263、21本塁打を放ち、毎日の優勝に貢献した。
翌年阪急へと移籍したあとは調子を落としたが、1955年には40歳という年齢で打率.321(480-154)を記録し、ベストナインに選出された。さらに翌年も打率.293(499-146)という成績を残し、2年連続でベストナイン。本塁打数は1桁だったが、それでも4番で起用され続けた事実は信用の裏付けか。
一方で、他に高い打力を持つ打者がいなかったことも理由の一つとしてあるだろう。1955年は岡本健一郎(同年打率.268、4本塁打)が4番を任され、戸倉が3番に座る試合もあったが、結局は元に戻った。同年打率.313(413-125)を記録した渡辺清もクリーンナップに座ったが、4番を任されることはなかった。
渡辺が記録した打率.313はリーグ5位の数字(3位が戸倉)。専修大学から入団したルーキーがこの成績を残した事実は評価されるべきだが、いまひとつ西村正夫監督からの信頼が薄かったか、3番、5番を任されたにも関わらず、リーグ最多となる21犠打も記録している。
なお前述の山内によるベストナイン選出が行われた年は1978年。既に加藤英司や福本豊など“黄金時代”を支えた選手が台頭する最中であるが、山内は他にも古川清蔵と中田昌宏を外野手、川合幸三を一塁手として選出しており、1950年〜1960年代阪急を評価しているようである。
あくまでも想像ではあるが、山内は当時阪急が弱小チームであったため、相対的に活躍している選手が光って見えたのではないだろうか。
そう考えると、中田の選出も頷ける。中田は1957年から1968年まで阪急に在籍した打者だが、“三振かホームラン”というタイプであり、低打率に喘いだ。しかし、貴重なホームランバッターということもあり、チームのなかでは傑出した存在であったと想像できる。そのため、山内は中田を選出したのだろう。
(敬称略)
プロ野球・歴代カムバック賞受賞者一覧
歴代カムバック賞受賞者
年度 | セ・リーグ | パ・リーグ | ||
---|---|---|---|---|
1974 | 石岡康三 | ヤクルト | ||
1975 | 安仁屋宗八 | 阪神 | ||
1976 | 船田和英 | ヤクルト | ||
1977 | 浅野啓司 | 巨人 | ||
1978 | 野村収 | 大洋 | ||
1979 | 三村敏之 | 広島 | ||
1980 | 谷沢健一 | 中日 | 門田博光 | 南海 |
1981 | 藤田平 | 阪神 | ||
1982 | ||||
1983 | ||||
1984 | 鈴木孝政 | 中日 | ||
1985 | 村田兆治 | ロッテ | ||
1986 | 津田恒実 | 広島 | ||
1987 | 杉浦享 | ヤクルト | ||
新浦壽夫 | 大洋 | |||
1988 | 有田修三 | 巨人 | ||
1989 | 西本聖 | 中日 | ||
中尾孝義 | 巨人 | |||
1990 | 吉村禎章 | 巨人 | ||
遠藤一彦 | 大洋 | |||
1991 | 小野和義 | 近鉄 | ||
白井一幸 | 日本ハム | |||
1992 | 伊東昭光 | ヤクルト | ||
1993 | 川崎憲次郎 | ヤクルト | ||
1994 | 彦野利勝 | 中日 | ||
1995 | ||||
1996 | 加藤伸一 | 広島 | ||
1997 | 伊藤智仁 | ヤクルト | ||
1998 | 斎藤隆 | 横浜 | 西村龍次 | ダイエー |
1999 | 遠山奬志 | 阪神 | ||
2000 | 種田仁 | 中日 | ||
2001 | 成本年秀 | 阪神 | 盛田幸妃 | 近鉄 |
2002 | 前田智徳 | 広島 | ||
2003 | 平井正史 | 中日 | ||
鈴木健 | ヤクルト | |||
2004 | 小久保裕紀 | 巨人 | ||
2005 | ||||
2006 | ||||
2007 | ||||
2008 | 平野恵一 | 阪神 | ||
2009 | ||||
2010 | ||||
2011 | ||||
2012 | 大竹寛 | 広島 | ||
2013 | ||||
2014 | ||||
2015 | 館山昌平 | ヤクルト | ||
2016 | ||||
2017 | 岩瀬仁紀 | 中日 |
石岡 康三(1974年)
石岡康三は、国鉄、サンケイ、ヤクルトで活躍した投手です。しかし、1972年に兼任コーチとなったあとの1973年は、わずか6試合の登板に終わってしまいました。ですが、翌1974年に、33試合で6勝5敗8セーブとリリーフで復活。見事、初代カムバック賞に輝きました。
安仁屋 宗八(1975年)
安仁屋宗八は、広島で活躍した投手です。しかし、1968年に23勝11敗の成績を残してからは、負け越すシーズンが続くなど、パッとしない成績が続きます。1974年には若生智男とのトレードで阪神へと移籍してしまいました。
しかしトレードで移籍した初年度の1975年に、66試合投げて12勝5敗7セーブ、防御率1.91の大活躍を見せました。この年は最優秀防御率賞と同時にカムバック賞をもらっています。
船田 和英(1976年)
船田和英は、西鉄で活躍した選手です。内野も外野も守れる選手として起用されていましたが、黒い霧事件と呼ばれる八百長騒動に関わっていたことを受けて、謹慎処分を受けてしまいます。その影響か成績も落ち、1971年には78試合で打率.179という低いものに終わってしまいました。そしてこの年のオフにヤクルトへとトレード移籍します。
移籍したあとも毎年100試合以上に出場しますが、打撃成績は伸びてきません。1975年には109試合で打率.216というものに終わってしまいました。
ですが、1976年に124試合出場して、自己ベストとなる打率.302と活躍。カムバック賞に輝きました。
浅野 啓司(1977年)
浅野啓司はサンケイ、ヤクルトで活躍した投手です。「巨人キラー」と呼ばれて活躍を続けていましたが、故障もあり、1975年、1976年は活躍を見せることができませんでした。
しかしトレードで、かつて得意としていた巨人に移籍すると、リリーフで活躍。9勝4敗1セーブ、防御率2.51の成績を残し、カムバック賞を受賞しました。
野村 収(1978年)
野村収は、大洋、ロッテ、日本ハムで活躍した投手です。1975年には最高勝率に輝いています。しかし、1977年は日本ハムで5勝10敗と成績が落ちてしまいました。するとオフに、かつて在籍した大洋にトレードで移籍します。
移籍した1978年には、17勝11敗で最多勝を獲得する活躍を見せて、見事カムバック賞に輝きました。
ちなみに野村収はのちに阪神へと移籍し、12球団から勝利を挙げるというプロ野球史上初の記録を達成しています。
三村 敏之(1979年)
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三村敏之は、広島で活躍した内野手です。渋い活躍をする選手でしたが、1976年には27本塁打を記録してパワーを見せました。
しかし、1977年は打率.239、1978年は打率.249と成績が落ちて、試合数も95試合に減ってしまいました。
ですが、1979年は打率.288、12本塁打を放つ活躍を見せてカムバック賞に選ばれました。
谷沢 健一(1980年)
谷沢健一は中日で活躍した選手です。1976年には打率.355を記録して首位打者にも輝くなど、安打を量産するタイプの打者でした。
しかし、アキレス腱を痛めて1978年は70試合、1979年はわずか11試合と、選手生命の危機に陥ります。
そこから日本酒を患部に塗るという、独特の治療法を行い、復活。1980年は自己ベストとなる打率.369を記録して、首位打者に輝きました。また、ホームランも27本打っています。復活を果たした谷沢健一には、カムバック賞が送られました。
門田 博光(1980年)
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門田博光は南海で活躍したホームランバッターです。1971年には打率.300、31本塁打、120打点の記録を残し、打点王に輝くなど活躍を続けました。
ところが、1979年の春キャンプでアキレス腱を断裂し、わずか19試合しか出場できなくなってしまいました。
ここから門田博光は「ホームランを打てば足に負担がかからない」と思い、ホームランに目覚めます。1980年は打率.292、41本塁打、84打点を記録して、見事な復活を遂げました。