ベテラン巧打者・戸倉勝城の功績と、1950年代阪急の打者たち
戸倉 勝城 とくら・かつき
1914年11月3日生まれ 右投げ右打ち
身長170cm 体重69kg
豊浦中-法政大-大連満州倶楽部-大洋漁業-毎日オリオンズ(1950)-阪急ブレーブス(1951〜1957)
古い野球雑誌を読んでいると、戸倉勝城の評価が高いことに気がつく。1950年から1957年にかけて毎日、阪急で活躍した外野手だが、山内一弘は球団ベストナインにライトとして戸倉を選出している。打低の時代にシーズン3割を3度記録した打力の高さが評価されたのだろうか。
戸倉は坪内道典らと同じ1914年生まれ。35歳という高齢で、1950年、大洋漁業から河内卓司と共に毎日オリオンズに入団した。同年大洋がプロ化したことを考えると、これは“引き抜き”であったかもしれない。入団初年度から主に4番として起用され、打率.263、21本塁打を放ち、毎日の優勝に貢献した。
翌年阪急へと移籍したあとは調子を落としたが、1955年には40歳という年齢で打率.321(480-154)を記録し、ベストナインに選出された。さらに翌年も打率.293(499-146)という成績を残し、2年連続でベストナイン。本塁打数は1桁だったが、それでも4番で起用され続けた事実は信用の裏付けか。
一方で、他に高い打力を持つ打者がいなかったことも理由の一つとしてあるだろう。1955年は岡本健一郎(同年打率.268、4本塁打)が4番を任され、戸倉が3番に座る試合もあったが、結局は元に戻った。同年打率.313(413-125)を記録した渡辺清もクリーンナップに座ったが、4番を任されることはなかった。
渡辺が記録した打率.313はリーグ5位の数字(3位が戸倉)。専修大学から入団したルーキーがこの成績を残した事実は評価されるべきだが、いまひとつ西村正夫監督からの信頼が薄かったか、3番、5番を任されたにも関わらず、リーグ最多となる21犠打も記録している。
なお前述の山内によるベストナイン選出が行われた年は1978年。既に加藤英司や福本豊など“黄金時代”を支えた選手が台頭する最中であるが、山内は他にも古川清蔵と中田昌宏を外野手、川合幸三を一塁手として選出しており、1950年〜1960年代阪急を評価しているようである。
あくまでも想像ではあるが、山内は当時阪急が弱小チームであったため、相対的に活躍している選手が光って見えたのではないだろうか。
そう考えると、中田の選出も頷ける。中田は1957年から1968年まで阪急に在籍した打者だが、“三振かホームラン”というタイプであり、低打率に喘いだ。しかし、貴重なホームランバッターということもあり、チームのなかでは傑出した存在であったと想像できる。そのため、山内は中田を選出したのだろう。
(敬称略)