職業野球を追いかけて

引退・戦力外・自由契約になったプロ野球選手を紹介したり、トレードやドラフトなどの各種データを掲載するブログです。

史上3人目・わずか79球の完全試合-宮地惟友

宮地 惟友 みやじ・よしとも
1932年1月28日生まれ 石川県出身
身長:5尺9寸(約179cm) 体重:18貫(67.5kg) 右投げ右打ち

金沢高校-金沢専売公社-国鉄スワローズ(1952年〜1959年)

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金沢高校2年生のときに、本格的に野球へ取り組み始めた異色の右腕。それまでは「野球は練習時間が長く、きついから嫌だ」という理由でバレーボールに取り組んでいた。

 

高校では目立った活躍を残せなかったが、その後入団した金沢専売公社でエースとして活躍し、1952年に国鉄へ入団。南海土建との試合でストレートとドロップを武器に活躍したことが、多くの野球関係者の目に止まったようだ。


前述のとおりストレートと6尺近い長身から投げ下ろされるドロップを武器としていたが、他にスライダー、シュートも投げていた。スライダーはプロ入団1年前に、雑誌『野球界』で藤本英雄が書いていた「スライダーの投げ方」を参考にし、習得したとのこと。

 

だが、スライダーを投げ始めたことでフォームを崩し、1952年から1955年までは3勝、3勝、2勝、3勝と勝ち星を重ねることが出来ず。なんとか復調するため、新たにスリークォーター気味に横から投げて上体を前に倒さないという、独特の“タコ踊り”と形容されたフォームを築き上げた(しかし、ドロップだけは横からではなく、上から投げていた)。

 

このフォームがハマり、1956年は序盤から好調。7月7日の大洋戦で左手薬指に打球を受け、骨折するアクシデントもあったが翌日から練習を開始し、根性を見せた。さらに9月19日、石川県営兼六園球場でプロ野球史上3人目となる完全試合を達成した。


このパーフェクトピッチングはわずか79球で成し遂げたものだった。ここまで球数が少なかった理由は、宮地が打たせて取るピッチングをしていたことも関係している。この試合で奪った三振の数は3であった。ちなみにその他の内訳は、内野ゴロ11、内野フライ2、外野フライ11。

この年は最終的に42登板、12勝12敗、防御率2.53という好成績を残したが、これはフォーム改造だけでなく、前年から走り込みを行い体を鍛えたことの効果もあったようだ。1956年から監督を務めた宇野光雄が、これまでの投げ込み主体の練習だけでなく、ランニングを取り入れたこともプラスに働いた。


また、当時の新聞によると宮地はバックが盛り上げてやらないといけないほど、精神的に脆い部分があったとのこと。

一躍時の人となった宮地だが、好事魔多しと言うべきか、同年オフに雪道で足を滑らせて捻挫。そのまま自主トレに入ったところ右足股の裏の腱を切ってしまった。そのためか翌1957年は5勝6敗と成績が悪化。

 

翌1958年も40試合に登板したが5勝8敗と振るわず、さらに1959年に肩と肘を故障して引退。完全試合後は怪我に泣かされた。

 

その後は金沢専売公社に戻ってプレーを続け、コーチとしても腕を振るった。


※参考文献 読売新聞 『ベースボールマガジン』北原遼三『完全試合 一五人の試合と人生』